司馬遼太郎『竜馬がゆく』で、ひと筆

―歴史の中に見る日本人とは―

柳田節作品集8  「日本人とは何か」



【写真】神奈川県「城山湖」2021.3.6

城山ダム近くの梅花

赤もある

ツバキも有終の美


司馬遼太郎『竜馬がゆく』を読んで、ひと筆

柳田節作品集8


本文

  日本人とは何か 

            柳田 節


  たしか、司馬遼太郎の『龍馬が行く』だったと思うが、約束を違えた同志に対して切腹せよ、と迫るシーンがあった。


 幕末という、たった百五十年程前の日本人は、約束を違えただけで仲間から死を要求されるのかと、驚いて読んだ覚えがある。


 日本人とはどういう民族なのだろうかと、このとき得体の知れない思いさえした。 


 切腹して腹からはみ出した腸をそこにいた外国人に投げつけてやった、という別の話も壮絶で驚く。幕末の外人襲撃事件の責任を取って切腹するシーンだったかと思う。 


 日本人イコール『サムライ』と言って恐れられたのは、その後、明治に入ってから以降のことで、海外での日本人に対する風聞だろう。 


 司馬遼太郎は、あとがきで「自分の“生き死に”を自分で決めるというのは世界広しと言えども日本人だけである」と、日本人の切腹について触れていた。

 考えてみればそうかも知れない。


“自決”という言葉があるが、自分の命を自分で決めるという意味で、切腹にはこの言葉が相応しいのかもしれない。 


 それにしてもなぜに、日本人は命にこれ程までに拘りがないのだろうか。 

 現代においても、日本人の自殺は世界に比べて多いと言われている。比較的簡単に死んでしまうのだという。言ってみれば命を粗末にしているのだ。


 というより、生まれ変わりの思想が強く日本人の念頭にはあるのかも知れない。

  死んだらどうなるか分からないと言いながら、日本人は天上のどこかにいると想像している。

 外国のキリスト教徒のように“死んだら何も残らない”と思っている人は少ないだろう。仏教の影響だろうか、やはり、輪廻転生して生まれ変わりそうな気がしてくる。 


 昭和四十五年に“七生報国”の鉢巻きを締め、日本刀をかざしながら、自衛隊の市谷駐屯地に乗り込んだのは、作家の三島由紀夫だった。

 一度の人生で思いを果たせるとは毛頭考えていない。七度生まれ変わって、七度国に報いるつもりだったようだ。

 

 おそらく、人の命は地球より重いということになったのは、明治以降に海外から入ってきた思想だろう。 

 それより以前の昔の日本人は、命よりも“誇り”を大切にした生き方を目指していたと言えるかも知れない。 


 生まれてきて二十年も経たないうちに、約束を違えるという不名誉な過ちをしてしまったら、これでは到底、大事を成し遂げられない、もう一回出直そうと思ったのだろうか。

 それほど、命に拘りのない人生観を持っていたのか。 

 

 そうだとすれば、あまりに潔い人生である。 


 この潔さには陰に、己の命に拘泥して判断を誤ることがないよう、“潔くありたい”という武士の願いが隠れているのだと思う。

 それは生死を超越するものだ。

  “桜の散り際”を愛する日本人は、潔さを好む民族だという。


 そういう血が自分の中にも流れているんだ、そう思うと、いまの自分もいつまでも悩んでいられない、いい加減で潔くなろうという気になってくる。

 これでいいんだ、と思えてくるから不思議だ。 


 私にとってこの小説は、日本人の日本人らしさを考えさせられるものであった。 


 自分の中の日本人らしさを知ることは、今対峙している現在の問題を解決するのに、大きな方向性を示唆してくれることが分かってきた。


 今まで味わったことのない感覚だが、これは民族力というべきか、先祖力というべきか分からないが、力強いパワーである。 

 何とも表現できないが、これを今の日本の若者たちに味わって欲しいと思った。 

 

 日本の歴史を振り返って、日本人がどう生きてきたかを知り、これから日本人がどう歩んでいくべきか、その方向性を自分で掴むことが、こんな時代だからこそ必要だ。


 まずは、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知り、そして、新しきを創造する『温故創新』となって欲しいものだ。 


 今の若者に一番必要なことは、曖昧になっている、自分の中の“日本人とは何か”をはっきりと掴み取ることである。


 そこに、私は日本の未来があると信じている。  。   

柳田節 随筆作品集 & 散策

― 読んで & 歩いて & 書いて & 撮る ―   随筆春秋 事務局   「昭和の日々」(2008年刊)  (ダイハツミゼット、防空壕、肥溜め、南極調査船「宗谷」、オウム事件の本質…)

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