鴨長明『方丈記』で、ひと筆(修正版)

ー古典に現れた日本人の生き方ー

個人作品「震災と方丈記」(修正)
          (平成25年作。 訂正:随筆春秋誌でなく別の月刊誌掲載の作品でした)

写真  躑躅ヶ丘[群馬県館林市]
               (2019年4月)
すごい咲き方
色とりどり 種類も多い
(名木)  桃色ヤマツツジ

 個人作品 震災と方丈記(修正)            

                柳田 節

  本文


 *3・11大地震と方丈記

  寝付かれずに夜ふけに起き出して、ビデオのスイッチ入れると、録画欄に「方丈記」のタイトルがあった。
バラエティー好きの我が家にしては珍しく教養番組だ。再生してみると、これが実に面白い。新たな視点でとらえた古典が別の作品に見えてくるから不思議だ。


  有名な名著を、一回二十五分の番組を四回、計100分で一作品放送する番組、NHK「一〇〇分で名著」で、『方丈記』を取り上げたのだ。

中学校以来、日本の古典をゆっくり読んだことがない。古い随筆に興味を持ち始めたこともあり、再生ボタンを押した。 


 講師は京都産業大学の小林一彦教授。方丈記を解説しながら、ホストのタレント、伊集院光たちの感想を交え進行していく。 


  興味を引くのは、最近、巷では、にわかにこの方丈記の人気が高まり、多くの人々に読まれ出していることで、とりわけ昨年、東北で大地震が起きて以来、その傾向は顕著になっているという。
 盛んにメディアでも引用され、またカルチャーセンターの文化講座でも、方丈記を読み解く講座は人気が高い。 


  鴨長明は、地震についてこう言っている。 

「恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震なりけり」(この世で最も恐ろしいのは地震だ) 


  冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして…」でも、この世にあるものはすべて浮かんでは消えていくとの“無常観”が書かれているが、この世のはかなさを具体的に説明するため、平安京を襲った五つの災厄を「まるでルポルタージュのように生き生きと、迫真の描写で」綴っている。 

 

 また、違う方向から見れば、意外なことが分かる。日本の三大随筆は何だろうか? 枕草子、徒然草と、この方丈記だ。
 他の二つの作品と違うのは、随筆というより一つのテーマを以って書かれた、優れた「自分史」となっている点だ。 

 

 方丈記が書かれた時期(一二一二年頃)は、保元・平治の乱を経て壇之浦で平家が滅び、源頼朝による武家政治の時代、鎌倉時代に入ったばかりという平安末期から鎌倉初期の大変動期だ。
 一つの時代が終わる末世という意味では、現代のような先行きの不透明な時代と似ているのかも知れない。 


 そして、昨年、東北で地震が起きた。原発など環境破壊を引き起こす人間の科学文明のへの警鐘とか、果ては神をも恐れぬ人間の思い上がった所業、罰が当たったなどの風評も立った。


 確かに、何を拠りどころにして生きていけばよいのか分らない、そういう時代なのかもしれない。


*災害をリアルに描写 

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と又かくのごとし」(冒頭部分) 


  文の長さのことだが、これも意外で、誰もが知るこの名文で始まる日本の古典、方丈記は、実は全体でも原稿用紙二十枚程度というから、比較的短い文章の作品だった。

 番組ではそれを二つに分けて、災害の記録部分と、長明自身が自分の人生や感じたことを語った部分と、それぞれに触れている。


  前半では、この冒頭の「世の中の人と栖(すみか)と又かくのごとし」を具体的に実証するかのように、五大災厄といわれる天災や人災について語られている。 


「安元の大火」、「治承の辻風(竜巻)」、「福原遷都(平清盛が一時、平安京を摂津の国(元・神戸市)へ遷都を強行しようとしたことがある)」、「養和の飢饉」、「元暦の大地震」など、地震、大火事、飢饉など自然災害や人災について書かれたもので、記録文学としても優れたものだといわれている。 


 余震に関してさえも、
「日に三十回も揺れ、やがて、日に四、五回、から二、三回、そして、一日おき、二、三日に一回」と、しばらく続き、納まっていく様子をありありと描写している。 


  しかし、何といっても面白いのは、人の気持ちの機微を捉えているところで、「大地震から月日がたち、年が過ぎると、もう言葉にして口にする人さえいない」と、人々の有りがちな風化現象に触れている。こういうところは見逃せない。



  大火については前述のように、新聞記事顔負けの描写だ。 

 「(方丈記の訳文)安元三年(一一七七)四月二十八日、風の強い不穏な夜の戌の刻、都の東南より出火し、またたくまに西北方向に燃え広がった。火は朱雀門、大極殿、大学寮、民部省のあたりまで至り、一夜のうちに灰燼に帰した。火元は舞人が宿泊している樋口冨小路の仮小屋である。炎はだんだんと扇を広げたように末広がりになって延焼し、炎から遠い家は煙にむせび、近いところは炎が盛んに地面に吹きつけている。空には煙幕のように灰が吹きたてられ、そこに炎の色が真っ赤に映っている。そのなかを、上昇気流に乗って吹きあげられた炎が飛ぶようにして、一、二町ほども超えて移っていく……」

  新聞記者にこの部分を見せると、「完璧な新聞記事だ」と絶賛される、と教授は言う。 



 *長明自身の境涯

  後半は、いうなれば長明が境涯を振り返りながら、人生についての自分の思いや考えを綴っている。

 何百年もの間、人々に感動を与え続けて色褪せることがなかった、日本人の大好きな古典文学は、このような内容が書かれている。


  また、長明自身の「栖(すみか)」について、長明は侘しく、こう語っている。

 長明がそれまで住んでいた家は十分の一になり、さらに終の棲家、方丈の庵は約三メートル四方の小屋で、以前の家に比べればさらに百分の一の大きさでしかなくなっている。

 それには次のような経緯がある。 


  平安末期(一一五五年)ころ、京都の下賀茂神社として知られる賀茂御祖神社の正禰宜の子として生まれ、大社の御曹司としてチヤホヤされて育ったお坊ちゃんだった。

 ところが、十八歳で父に死に別れてから、相続争いに敗れ、転落の人生を歩んでいくことになるのである。“今でいう負け組”の人生だ。


  しかし、その後ようやく、そんな長明にもチャンスが訪れ、四十七歳の時、後鳥羽上皇から『新古今和歌集』の編纂チームに加わるよう大抜擢の声がかかる。一流の歌人を証明するポストである。

 これを機に下賀茂神社の摂社である河合社の禰宜職という名誉な出世話があり、本人が感激しかけたのも束の間、横やりが入って結局は、この人事も立ち消えとなってしまう。 


 私もサラリーマン経験があるので、このあたりの境遇の悲哀はよく分かる。

 ちなみに、これらの長明の身上については他の文献から分かっていることであって、本人が語っていることではない。 


 そして、ついに居場所を失った長明は失踪してしまう。籠っていた大原からさらに転居して、京都市伏見区の「日野の山中に小さな庵を構え終の棲家」とした。

 人生最後のチャンスが絶たれたことにより、きっぱりこの世を捨て出家し、独居生活を始める。

 そして、数年後、長明は方丈記を書き始めることになるのだが、しかし、この引き籠った方丈庵で、長明は人の世の煩わしさから初めて救われ、精神的にも安らぎを得ることになるのである。



 *「方丈の庵」―自分を捨てて得られた幸せ― 

「出世コースからは外れた長明」だが、俗世と住み家を捨てて、ようやく「理想の住まい」で幸せを手に入れ、そして、そこで楽しい一時を過ごすことになる。

 庵のある近くの日野山のふもとには、山を守っている番人の小屋があり、一〇歳になる男の子がいた。 

 その子が、長明を訪ねて遊びにくると「大人の社交は苦手」でも、子供好きの良寛のように、二人は年の差を忘れて一緒に野山を歩いて楽しく過ごした。


 童心に帰って芹を摘み木の実を拾い、山を散策しもした。 


「長明はよほど都会と人間が嫌いだったのでしょう」

 そのように解説者が言っているが、前半で災害記録を描写したあと、隠遁生活に入った理由について、長明はこう述べて後半に入っていく。 


「(訳文)身分が低ければ、権力者の前でいつも小さくなっていなくてはならず、貧乏であれば、富裕な隣人と顔を合わせるたび恥ずかしい思いをせねばならない。人家の密集地に住めば火事の類焼をまぬがれず、僻地に住めば交通の便が悪く、盗難の心配もあって物騒だ。出世して物持ちになるほど人心が貪欲になっていき、かといって独身だと軽く見られる。財産があれば心配になるし、貧しければうらみがましくなる。誰かを頼りにすると自分は失われ、そのものに支配されることになる。誰かの面倒をみると愛情にしばられる。世の中の常識に従えば窮屈だが、自由気ままを通すと、見た目は狂人とそっくり同じになる。結局、この世には、心休まるところはどこにもない。どんな仕事をして、どのように生きても、ほんの一瞬も、この社会では心安らかに暮らすことができない」 


 このあたりは、どこかで聞いたことがある。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される……」で有名な明治の文豪、夏目漱石の『草枕』の冒頭の一節と、よく似ており、漱石の念頭には方丈記が残っていたのではないかと推測されている。 


  しかしながら、これらの記述したことをよく考えてみると、いったい、「誰に向けて書いたのか」という疑問から、ある意味で、方丈記とは「持てる者」への反論をしているに過ぎないのではないか、という見方もされている。 

 つまり、世の権力者、成功者がいつも心安らかではないのに引き換え、一見、みすぼらしいようだが、自分はなんて幸せな心安らぐ生活をしていることだろうと、当てつけている。

 

 そういう意味で、やはり、敗者がする一種の「復讐の書」と言えると面があると言われているのである。


 “あなたたちが敗北者と思っている私は、あなたたち以上に幸せさ。負けてはいないのだ”と、心の片隅で主張していたのかもしれない。 



 *悟り切れない人間臭さの魅力 

 そんな自分に気づいた長明は、すべての執着を捨てて安心立命の境地を得たつもりでいたところ、いまだなお、俗世間を気にしている自分、執着を捨て切れない自分に愕然としたはずである。 


  無常観を悟って書いた人の書ではなく、実はどこまで行っても悟りきることのできない、「人間臭い本」だともいわれる所以である。 


  そして、このことは執着を捨ててもすべてを悟りきることはできず、「人間は一生修行」だということである。

また、だから人間は生きているうちに、神にも仏にもなることはない、ということで、一生、不完全な、生身の生き物として生かされている、ということになるのだろう。 


 人間の力を超えたものの存在に出会い、不可抗力を感じて無常観を痛感したり、また、執着を捨て悟りきることができないのが、人間の真の姿である。

そこにこの方丈記が長年愛された、自然な魅力があるのだろう。 

 

 最後の章で、長明は次のように自問している。
それに対し劇的な自答を用意して方丈記を結んでいる。 

 (自問の要約)いよいよ自分の人生も終わりに近づいているが、なかなか悟りきるということが出来ない。仏の教えを守って執着心を捨てることを心掛け、ものを持たず、ものを望まず暮らしてきたつもりだが、この庵やここでの暮らしを愛することも執着であり、これからの極楽往生の差し障りとなるだろう、などと迷い続けて自問すれども、答えはない。

「(自答訳文)しかし、その問いに対して心は全く答えないので、自分の舌にまかせて、至らぬ仏弟子である私は、ただ念仏を三べん唱えて終わった」

 突き放すような結末である。

*究極の失敗談に共感
 この『方丈記』は、悟りを開いた仏道修行者の書ではない。

つまり、こうして私は悟りを開いた、という話が書かれているのではなく、むしろ、中途半端に悟れずにいる生身の人間の迷いや嘆きが書かれている。

だからこそ、万人の共感を呼ぶのだと考えられる。悟りを開いた者の成功談が書かれていても、きっとこれほどの共感は得られないだろう。

読者と同じ土俵にいて、同じように苦しみ、嘆き、迷う人物としての長明の姿に共感するものがあるのである。

そこに人間の弱さ、人生の真実を語る“文学作品”としての良さがあるとされている。

 長明は、神になったり仏になったりすることなく、本来、生かされるべき不完全な人間としての分を忠実に守っている。

 この方丈記の結びの解釈はいくつかあるようだが、この講義から、私はこう言っているように感じた。

 世を捨て、この年まで仏の教えに従い執着を捨てたつもりが、未だ執着心を捨て切れずに迷っている。こんなことでいいのだろうか、と問うてみるが、出来の悪い私の心には、何の答も浮かんでこない。ただ、口を衝いて出た念仏を三べん唱えるということは、仏の力にすがって一生、修行を続けるということだ。

そう私には聞こえる。

この終わりのない人としての修行の道こそ、与えられた我々人間の生きる姿なのだと思う。 



 *時代を超えた名作 

 また、すべてを捨てて独居生活に入ったつもりが、まだ、浮世に対して自己主張している執着がある、自分があることを気がついたのは、しかし自分を内省に内省を重ねた姿だと思う。やはり、起きてきたことを素直に受け入れ、内省しながら生きる生き方を、昔の日本人はしていたのだ、と改めて思った。 


  結局、日本人の心を伝える「名作」というものに、何が書かれていたのかと言えば、

 それは、すべて起きてくる出来事を自然に受け止め、自分を振り返って暮らすことであり、しかし、悟りきれない自分を放って、神や仏ではなく人間として相応しい自然な生き方をしようとしている姿でもある。

 そして、最後は、仏教徒であれば仏だろうが、人間として大自然の意に沿って生きようとするのが日本人の心なのだろう。

  いにしえの人々もやはり、本当の意味で人として真剣に生きようとしていたのだ、とつくづく思った次第である。 

 その真摯な姿に胸を打たれる思いがする。 

                                 (2012作・2021修正)

 

 *附言  

 名作『方丈記』とはどんな随筆だったのか? 

 冒頭で、全体のテーマを川の流れに例えて無常観という抽象的なテーマで示唆し、都の災害をリアルに描写することで、世のはかなさを表現する一方、隠棲した後に眺めた人の世へ感懐を吐露しながら、老境に至っては、悟り切れない自身の心境をさらけ出してみせている、といえるだろうか。

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