『昭和天皇 涙の因通寺巡幸』
戦後すぐ、昭和天皇が訪問された因通寺で皆が泣いた・・・ -柳田節作品集4-
写真は、東京渋谷『青の洞窟』
代々木公園に続く小径
『巡幸』 ー昭和天皇 涙の因通寺巡幸ー
(随筆春秋誌2019)
柳田 節
本文
昨年は、平成最後の年となった。平成の時代で忘れられないのは、東日本大震災である。
震災直後に訪問された両陛下が、体育館のマットに膝を折って座られ、相手の言葉に耳を傾けられる姿はまだ記憶に新しい。
戦後すぐに始まった『巡幸』だが、当初、GHQが中々許可しなかったらしい。他の多くの国では、敗戦国の首長は民衆に襲われることが多かったからだそうだ。ところが、各地で巻き起こる万歳の声に、GHQも畏怖の念を持って占領政策の軌道修正をしたと言われる。
焦土と化した都市、極度の食糧難、信じるものを失った不安、そんな戦後の日本を復興に導いたのは、もちろん国民一人ひとりだが、全国を歩かれた天皇の巡幸に、どれほどか国民は支えられた。
“昭和天皇の最大の業績は、日本全国への巡幸であろう”と歴史の本も書いている。そして、私が、巡幸と聞いて思い出すのは、有名な因通寺の巡幸である。住職が書いた本が残っている。
昭和二十四年五月二十四日、佐賀県の因通寺に巡幸があった。因通寺では戦後、境内で孤児院を始め、戦災孤児四十人を養っていた。
当日、陛下が寺に来られたとき、県道は沢山の人が集まり、既に自然に天皇万歳の声が上がっており、車が停車すると声がピタリとやんで静まり返ったところに、中から陛下が降りられると、その瞬間、再び天皇陛下万歳の声が上がる。陛下は帽子を取ってお答えになり、山門から本堂に礼拝し、孤児のいる洗心寮に向かう。
陛下は一部屋ごとに足を止められ、腰をかがめて子供たち一人ひとりにお言葉を掛ける。
「どこから」
「満州から帰りました」
「ああ、そう、おいくつ?」
「七つです」「五つです」
陛下は、子どもたちに、お顔を近づけて、
「元気にね、元気にね」
最後の部屋の前で足を止められた、陛下の表情が俄かに厳しくなり、ある一点を見つめられている。そして、三人の女の子の真ん中の子に近づかれ、
「お父さん?お母さん?」
と、尋ねられる。
女の子の手には、二つの位牌が抱きしめられていた。
「はい、これは父と母の位牌です」
これを聞かれた陛下は、
「どこで?」
「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引き揚げ途中で病のため亡くなりました」
「お寂しい」
と、悲しそうなお顔で言葉を掛けられた。
「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は亡くなったお父さんともお母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまた会うことが出来るのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は仏様の前に座ります。そして、そっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。すると、お父さんもお母さんも、私のそばにやって来てそっと抱いてくれます。だから、寂しいことはありません。私は仏の子どもです」
陛下は、女の子をじっと見つめ、そして、この子の顔をそっと撫でられた。
「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」
そう、おっしゃったとき、陛下の涙が畳を濡らしていた。そして、女の子は小さな声で、
「お父さん」
とささやき、これを聞いて陛下は深く頷かれた。
その様子を眺めていた周囲の者は、皆泣いた。同行して来た新聞記者も肩を震わせて泣いていたという。
実は、参列していた人々の中に、ソ連に洗脳されたシベリア抑留帰還者が害意を持って待ち構えていた者もいたが、陛下から直接言葉を掛けられたとき、洗脳を解かれ、こんなはずじゃなかった、俺が間違っていた、と泣き出したこともあったそうである。
それにしても、昭和天皇は、誰よりも敗戦の責任を強く感じておられたであろう。
口には出されないが、おそらく、敗戦色濃い昭和二十年、空襲で焼けただれた東京の街を、皇居の中から、いたたまれぬ思いでご覧になられたことであろう。ご退位はもちろん、日本人として、或は自決をも覚悟されたとしても、不思議はなかったと思う。
しかし、もしそういうことがあっても、おそらくは側近の強い説得があり、いたたまれぬ思いのまま、八月十五日をお迎えになられたと思う。
だからこそ、この国が一日も早く復興することを願われていたのだと、私にはご心中を察するに余りあるものがある。
戦後になってすぐ、昭和天皇は熱心に各地を巡幸されるようになった。
0コメント